YOSHIMI裁判いっしょにアクション!
「吉見裁判」とは、中央大学の吉見義明さんが、日本維新の会の桜内文城衆議院議員(当時)を名誉毀損で訴えた裁判です。

2015-09-23

吉見裁判 第7回口頭弁論&報告集会 参加記

吉見裁判第7回口頭弁論
参加記

2015420日(月)、東京地方裁判所103号法廷にて第7回口頭弁論が行われた。従来通り開廷前に傍聴券の抽選が行われ、約180人が抽選に臨んだ。今回、そして次回と、いよいよ本人および証人尋問の段階に入り、吉見裁判も地裁での山場を迎えている。
1330分開廷。裁判長の交代(新裁判長は原克也氏)に伴う更新手続き、本人・証人の宣誓を経て、まず阿部浩己さん(神奈川大学)に対する証人尋問に移った。

―阿部浩己さん証人尋問―
<原告側主尋問>
主尋問は、阿部さんの意見書(甲69号証)に沿って、奴隷制に関する国際法上の理解・解釈を確認し、そのうえで日本軍「慰安婦」制度が性奴隷制度と言えることを明らかにする方向で進められた。
まず、国際法において奴隷制を最初に定義した奴隷制条約(1926年)第11項が示され、奴隷制かどうかを判断する国際法上の法規範は、今日まで一貫してそれであることが確認された。さらに、そこでの定義―「奴隷制とは、所有権に伴ういずれか若しくはすべての権限が行使される者の地位または状態をいう」に対する解釈のしかたが証言された。奴隷制とは、「所有権に伴う権限」の行使によって、人がモノを全的に支配するのと同じように、人が人を全的に支配し、人の自由や自律性を重大なやり方で剥奪することである、と。
続けて阿部さんは、国際機関の報告書や国際法廷の判例を挙げながら、現在の国際法の世界では上記の解釈が定着していることを述べ、さらに、どのような「所有権に伴う権限」が行使された場合に奴隷制が成立していると判断されるのかを証言した。具体的には、移動の支配、物理的環境の支配、心理的支配、力による威嚇又は強要、残虐な取扱及び虐待、セクシュアリティの支配、強制労働などに着目し、それらが「所有権に伴う権限」の行使に該当するかどうか検討することによって判断されるという。
以上を踏まえて、吉見さんの『従軍慰安婦』に登場する「慰安婦」が、国際法的に性奴隷制と言えるかどうか、最後に確認された。同書の記述には先に挙げたような様々な支配・強要・虐待・強制などが見られることから、「慰安婦」は、「人を使用する権限」・「人の使用を管理する権限」・「人の使用から収益をあげる権限」などの「所有権に伴う権限」が行使されている状態に置かれたのであり、性奴隷制と言えることが明らかにされた(阿部さんの主張の詳細についてはYOいっション発行『日本軍「慰安婦」制度はなぜ性奴隷制度と言えるのか』を参照されたい)。

<被告側反対尋問>
反対尋問では、なんと、桜内被告本人がまず尋問に立った。被告は、阿部さんの専門分野や研究歴を引き合いに出したうえで、自身が博士号を取得していることを披瀝し、吉見さんの学歴について皮肉を述べ、また新書は学術的な水準が低く、『従軍慰安婦』も例外ではないと述べた。さらなる個人攻撃というほかはない。
さらに被告は、「慰安婦」問題が表面化したのは1992年以降であるということを阿部さんに確認したうえで、問題化するまでそれほど時間がかかったということは、「慰安婦」=性奴隷というべきものは本来存在していなかったのではないか、吉見さんをはじめとする特定の「勢力」が火をつけたことで問題化した、いわば「政治問題」ではないかと私見を述べた。阿部さんがその場で正しく反論したように、重大な人権侵害では問題が表面化するまでに長い時間を要することがしばしばある。被告の見解は、そうした被害者に思いを致すことのない、独善的な強者の論理であろう。
この後、被告は『従軍慰安婦』の学術的水準や、クワラスワミ報告の「いかがわしさ」について繰り返し疑義を呈した。被告の意図は、これらの「難癖」によって「慰安婦」=性奴隷ということを何とか否定しようとするところにあり、傍聴席に向かって自説を開陳するその姿は、まるで反対尋問の名を借りた「演説」で、裁判長から「質問」をするよう注意されたほどであった。
被告側の弁護士による反対尋問でも、「慰安婦」問題は「朝鮮人が騒ぎ立てたから問題になった」、「日本には歴史上奴隷というものは存在せず、それは日本の誇りである」などといった、反対尋問とは到底言えない、一方的な歴史観の開陳が行われた。彼らは、阿部さんが論理的に説明した「所有権に伴ういずれか若しくはすべての権限」の行使ということ自体も、法曹人として「よく理解できない」と言い、裁判で争点になってきた奴隷制の「4つの要件」(「居住の自由」・「外出の自由」・「拒否する自由」・「廃業の自由」の欠如)についても、基本的な確認を繰り返した。概して被告と同様の歴史観によって「慰安婦」問題と、それが性奴隷制度であったことを否定しようとするもので、阿部さんの国際法的な論理に真っ向から対抗できるような水準の反対尋問ではなかった。

―桜内被告本人尋問―
<被告側主尋問>
休憩を挟んで、桜内被告に対する尋問に移った。若手弁護士による主尋問では、問題となった記者会見での発言の「真意」を確認することに力点が置かれた。いわく、記者会見への同席は518日の党の公約会議の時点で決まっており、そこでは「慰安婦」についても話し合いがなされ、「慰安婦」=性奴隷(sex slavery)という認識が広まることへの懸念から、会見でそれに関する発言が出た場合、被告が制止することになっていたという。被告はそうした任務を帯びて会見に臨んでいたために、司会の発言に対して例の「ねつ造」発言をしたのだ、と。自身の発言の責任を転嫁するために予防線を張ったとでも言えようか。
さらに被告は、記者会見の時点では吉見さんの本を読んでおらず、ゆえに「これはねつ造」という発言は、吉見さんの本ではなく「慰安婦」=性奴隷(sex slavery)を指すのだと主張した。「慰安婦」=性奴隷を「ねつ造」とみなす根拠として、被告は、秦郁彦の『慰安婦と戦場の性』や政府見解などを挙げた。基本的には、発言中の「これ」が「慰安婦」=性奴隷(sex slavery)を指すこと、それを「ねつ造」とする根拠があったことを被告自身に説明させる主尋問であった。

<原告側反対尋問>
反対尋問では、まず発言中の「これ」が「慰安婦」=性奴隷(sex slavery)を指すとする被告の主張について追及が行われた。原告側は、ネット上の反応などを挙げて、「これ」が常識的には吉見さんの著作や『従軍慰安婦』を指すものと理解されていることを示した。これに対して被告は、舌足らず・言葉足らずではあったが訂正の必要はないと強弁した。
そのうえで、原告側は、「慰安婦」=性奴隷(sex slavery)ということを否定し、「国際法上の定義に該当しないのに吉見さんが政治的主張をした」とする被告に対して、阿部さんの国際法理解を基本線に据えながら、被告の「慰安婦」認識を問い質していった。ここでの応答からは、奴隷制条約の理論的解釈や「慰安婦」の生活実態(歴史的事実)についての認識は被告と原告側とで大きなズレはないらしいことが判明したが、それでも被告は「慰安婦」=性奴隷をあくまで否定し、吉見さんの『従軍慰安婦』が恣意的な事実選択をしているとして譲らなかった。ただし、被告自身が史料批判をしたことは「広い意味である」だけだという。
そこで、「慰安婦」=性奴隷の論点となっている「4つの要件」(前出)について、さらに細かく被告の認識が問われた。「慰安婦」=性奴隷を否定するならば、被告はこれらについて自身の「史料批判」に基づいて否定の根拠を示すべきであった。だが、被告は否定の根拠となるような事実(例えば各自由を認めるような慰安所規定の存在)を証言できず、事例によっては例外的な規定が適用されるなどして、そうした自由があったり、収入を得ていたりしたのではないかと自説を披露した。だが、肝心の「個別具体的なことは分からない」という。吉見さんの史料批判や事実選択を批判するわりにはお粗末な「客観的」立論である。もちろん、これら個別具体的な実態を検討したうえで、原告側は「慰安婦」制度=性奴隷制度と主張しているのである。自分の政治的立場を前提として恣意的な史料批判・事実選択をしているのは他ならぬ被告自身であろう。総じて、被告の「慰安婦」=性奴隷=「ねつ造」論の底の浅さ、論理的な不自然さが露呈した反対尋問であった。
最後に裁判所側(左陪席)から、被告に対して、会見時の逐次通訳の内容に関して質問があった。被告は、記憶が曖昧だとしながらも、その訳に違和感は持たなかったと答えた。

(一事務局員)

第7回集会参加記

口頭弁論終了後、中央大学駿河台記念館に場所を移し、18時から報告集会が開催された。今回は、同日に口頭弁論が開かれたニコン裁判(ニコン「慰安婦」写真展中止事件裁判、原告:安世鴻さん)との合同集会で、参加者は約80人であった(以下、吉見裁判関係を中心に記す。ニコン裁判関係は同裁判の支援団体「教えてニコンさん!」のサイトや発行物を参照されたい)。
原告挨拶として吉見さんは、阿部さんの尋問を通じて「慰安婦」制度=性奴隷制度ということが明確になり、被告側の奴隷制理解の誤りが明らかになったと述べた。また、「これ」は吉見さんの本を指さないとする被告の主張に無理があること、「慰安婦」制度=性奴隷制度をねつ造とする根拠を被告が提示できなかったことを指摘し、証人尋問全体を通して被告側のレベルの低さを感じたとコメント。次回の秦郁彦氏の尋問に意欲を見せた。
 弁護団からの報告の後、証人を務めた阿部さんは、反対尋問の感想として、被告側の質問は主観的な思い・感想をぶつけるものばかりで、裁判で応答するに値しない質問が多かったと述べた。また、「慰安婦」=性奴隷を否定する被告側の主張、そしてその背後にある日本政府の同種の立場について、それらは自己の主張を正当化するために都合よく法(国際法)を解釈しようとしていると批判し、「慰安婦」=性奴隷か否かはそうした法的な解釈の問題ではなく、その次元を超えた、法の倫理に関わる問題であると述べた。さらに、その被告側主張の驚くべきレベルの低さに言及し、それが裁判で臆面もなく提示され、また日本社会にも一定程度受け入れられている状況、そうした「知の劣化」状況に対して警鐘を鳴らした。

この「知の劣化」という表現は、吉見さんの挨拶にもあったように、今回の証人尋問における被告側の姿を端的に言い表している。そして「知の劣化」は、阿部さんが言うように、日本社会の「慰安婦」認識・歴史認識に影響を与え、またそれに支えられてもいる。裁判を通じて、「知の劣化」状況を打破し、日本社会の歴史認識を問い直していくことの重要性を改めて痛感させられた口頭弁論であった(もちろん、弁護団報告や質疑応答でも確認されたように、吉見裁判はあくまで名誉毀損裁判で、裁判の主要な争点は「慰安婦」制度が性奴隷制であるか否かよりも、吉見さんの「慰安婦」に関する本が「ねつ造」であるかどうかである。念のため)。

(一事務局員)